現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います。
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戦国武将、上杉謙信の名言。
今回の言葉は「上杉謙信」の言葉として残されています
上杉謙信の名言と言葉の意味
今回の言葉は
「大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。」
と遺されています
義に厚い謙信。その思いは後継者である上杉景勝へと引き継がれ、屈すれど滅びずの精神で、幕末まで米沢藩上杉家は存続します。
上杉謙信の生涯・功績
家督相続・越後統一
越後守護代・長尾為景の四男として生を受けた謙信は、庚寅年生まれのため虎千代との幼名を名付けられます。当時の越後の国は内乱も激しく、長尾家内部でも三家に分かれ守護代の地位を争うようになります。家督を虎千代の兄・晴景へと継いだ為景は隠居しますが、兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく内乱がたびたび起きます。
その折、元服した虎千代は名を景虎と名乗り、栃尾城の戦いで初陣を果たします。国人衆の謀反により起こったこの戦いは、景虎の策により鎮圧に成功。その後、兄弟の間で互いに守護代へと擁立する動きがありますが、守護・上杉定実の調停の下、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退。19歳で家督を相続した景虎は、後継者を遺さずに死去した定実に代わり、室町幕府13代将軍・足利義輝の命により、越後国主としての地位を認められることとなります。その後の内乱を治め、22歳にして越後統一を成し遂げるのでした。
川中島の戦い
信濃国北部千曲川のほとり長野盆地の南、千曲川と犀川が合流する地点から広がる地を川中島と呼びます。この地では幾度となく戦が繰り広げられており、中でも川中島の戦いが有名です。
- 第一次川中島の戦い
- 第二次川中島の戦い
- 第三次川中島の戦い
上杉景虎(上杉謙信)と武田晴信(武田信玄)の決戦地であり、1553年、1555年、1557年と三度の戦を交わしています。度重なる景虎と晴信の間に入ったのは、当時京で三好長慶・松永久秀と対立を深める義輝でした。景虎の力を借りたい義輝は、両者の和睦を勧告する御内書を送っております。その結果、晴信は要求した信濃守護に補任され、兵を引き上げるのでした。
小田原城の戦いと関東管領
1559年秋、上洛をしていた景虎は義輝より関東の政務の補佐役である「関東管領」就任の許しを得ました。さらに 「上杉の七免許」と呼ばれる強力な特権を、持ち帰ることとなります。
1560年桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたことを知った景虎は、甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、関東に向け出陣。景虎は自ら軍の指揮を執り上野国から武蔵国へ進撃しをすると、北条氏康の居城である小田原城を初めとする諸城を10万の兵で包囲・攻撃を行います。この氏康は晴信と繋がっており、景虎の背後を牽制するのでした。
これらの動きにより、佐竹義昭らが無断で陣を引き払い撤兵したため、落城させるには至らず1ヶ月にも及ぶ包囲おこなったものの、越後に兵を引き上げます。この帰還途中に松山城を落すなど景虎の猛将ぶりが後世まで語り継げられています。
第四次・第五次川中島の戦い
この頃山内上杉家と関東管領職を相続した景虎は名を「上杉政虎」と名乗る様になります。そのころ武田軍は北信遅効へ進行を果たしておりますが、対する政虎も1万3,000人の兵を率いて川中島へ出陣します。晴信の軍は20,000とも言われており、第四次川中島の戦いとも呼ばれるこの合戦は両軍合わせ、もっともの多くの戦死者を出したと言われております。濃霧が発生している川中島を政虎は、信玄の裏をかき夜間に八幡原に布陣すると、霧が晴れた武田軍は劣勢に陥ります。
ところが、妻女山を攻めていた武田軍の別動隊が、八幡原に到着し謙信の背後から攻めかかると、形勢は逆転します。挟み撃ちされた謙信は、犀川を渡って善光寺へと逃れました。
この戦いにおいて海津城を守り切った晴信と越後を守り切った政虎、お互いが勝利を主張する戦となったのです。この頃政虎は義輝より一文字賜り輝虎(上杉輝虎)と改めております。第五次川中島の戦いは両者にらみ合いだけで終わり、その後輝虎は関東攻略、晴信は駿河進行へと向かうのでした。
越相同盟と謙信
関東での情勢が混乱を極める中、京では義輝が二条御所で殺害される、永禄の変が起きます。その後、織田信長に推戴され新しく将軍となった、足利義昭からも関東管領に任命されており、越中への進軍も増えるようになります。
甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻していた武田信玄と断交した北条氏康は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向に敵を抱える苦しい情勢となります。信玄への牽制の意図もあり、宿敵ともいえる氏康と越相同盟を交わした輝虎は、氏康の七男を北条三郎を養子として迎え可愛がります。景虎の名を与えるとともに、自身の名を不識庵謙信(上杉謙信)と名乗るのでした。
織田信長との戦い
北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄し、武田信玄と和睦すると再び北条氏と敵対することになるのでした。信玄は謙信の動きを牽制するために、越中での一向一揆を扇動しますが、謙信は滝山城、富山城、一本木城と攻略を重ねる中、越中への侵攻を果たすのでした。
その後の謙信の侵攻は能登・七尾城の陥落に至り、織田軍と直接衝突が起こります織田軍北陸総大将・柴田勝家は3万余の兵力を誇り、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら名だたる武将を引き連れての進軍でした。七尾城からの援軍要請に応えるものであり、 柴田軍はすでに七尾城が陥落している事を知ることもなく、 手取川を渡った柴田軍は陣を張ります。逆手に取った謙信はすでに背後の松任城に進軍しており、事態を知り撤退をかける柴田軍を追撃し、柴田軍の大敗により結着を迎えます。
その翌年、帰還した春日山城で謙信は急死してしまいますが、それは次なる侵攻へ向けて準備が整った春のことでした。
名言の使い方
社畜たるもの武士であるが如く
大事なのは義理の二字であります。お供いたします
会社の上司と出張だと、夜のお付き合いでハチャメチャになることもありますよね。義理の二文字で自身は財布を出さず、、、ごちそうさまです!!
まとめ
今回は上杉謙信を取り上げました。
謙信公を語るとまだまだボリュームが足りませんが、とても義に厚く越前の朝倉義景等からも援軍の要請を受けていたようですね。その死因がとても残念に思いますが、生前はお酒が大好きで、塩をつまみにお酒を飲んでいたとも言われており、高血圧による脳血管障害が死因とも言われております。
何事もほどほどにしておきましょう。
それではみなさま良い社畜ライフを!