現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います。
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清水宗治は忠義の武士であり、武士の鑑である
秀吉の水攻めで自刃した宗治ですが、その武士たる姿は後生にまで【武士の鑑】として言い伝わっております。
清水宗治の辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して。」
清水宗治の生涯
備中高松城城主
備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となります。
毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼されたと言われています。
秀吉の中国攻め
天下統一を目指す織田信長は、各方面に有力武将を立て自身の領土拡大を図っていました。
織田包囲網に加担した、毛利討伐を主とする中国攻めの総大将を命ぜられた、羽柴秀吉は播磨に入り姫路城を拠点とします。2ヶ月程で播磨一国を治めた秀吉は、別所長治・荒木村重の離反や鳥取城攻めなど多くの戦果を挙げ、残すは宗治の居城である備中高松城となったのです。
備中高松城の戦い
秀吉は姫路城から備中へ向け2万の軍勢で出陣すると、途中、宇喜多氏の動向を探り宇喜多氏が織田軍に味方することを確認。宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ入ります。
宗治は5000の兵で籠城をしており、2度に渡る秀吉軍の攻撃を退けています。
毛利討伐のために進軍してくる信長の到着前に、何とか決着をつけたい秀吉は、高松城が低湿地にある沼城という利点を逆手に取った奇策を実行します。
東南約4キロメートル、高さ8メートルにわたる堅固な長堤を造り足守川の水を塞き止め、城ごと水攻めにしようとするものでした。折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水し、城を囲むように大きな湖ができあがります。これにより補給路は完全に断たれ、高松城は危機的な状況に陥ります。
秀吉は包囲を継続する一方、毛利氏との講和の交渉にも入っています。
信長が到着する前に決着をつけたい秀吉と、自領の安堵を求める毛利。秀吉の軍師「黒田官兵衛」と毛利の軍僧「安国寺恵瓊」が交渉を重ねますが、折り合いがつきません。
しかし、この時事態が急変します。
本能寺で信長が討たれたとの知らせが秀吉の元に入るのでした。
毛利方にこの知らせが届くと、和睦交渉に応じる必要は無くなり、秀吉軍の戦況は混乱を極めます。
呼び寄せられた恵瓊は譲歩された条件にて和睦を受け入れます。毛利方にも力攻めをする体力は残されておらず、講和を受け入れるほかありませんでした。
宗治の切腹
宗治は秀吉より贈られ酒と肴で別れの宴を開いたと言われています。
身なりを整えた後、秀吉から差し向けられた小舟に乗り、秀吉の本陣前にて舞を舞ったと言われております。
その際、辞世の句として「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して。」と遺し、自刃するのでした。
秀吉はその見事な最期に「武士の鑑」と称しており、忠誠心は現代にも語り継がれるに至ります。
名言の使い方
サビ残と 言われ社畜 タダ働き。 名をタイムカードの 隅に残して
休日出勤、サービス残業上等ですが、言われっぱなしでも悔しい思いがあります。こっそりタイムカードに記入しておいてやりましょう!負けません。
まとめ
戦国武将好きに人気の高い清水宗治ですが、武士としての生き方に魅せられる方も多いのではないでしょうか?
毛利方だけでなく、秀吉も最期まで宗治の切腹を避けようと動いていましたが、宗治自身が降伏を承諾せず、自身の命で毛利と城民の命が助かるなら、喜んで切腹すると口にします。宗治のように忠誠心をもって日々の仕事に尽くしたいものですね。
それではみなさま良い社畜ライフを!