武田信玄は、戦国時代の日本において非常に有能な武将であり、織田信長、徳川家康も恐れた武将です。彼の戦略的な思考と決断力は多くの人々から称賛されており、現代のビジネスにおいても役立つと思われる武田信玄の名言をいくつか紹介します。
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武田信玄とは?何をした人か?
武田信玄は、戦国時代の日本において信州を中心に活躍した武将です。若い頃から武勇に優れ、父・信虎を追放するなどして領土を拡大しました。その後の信玄は、数々の戦いで勝利を収め、上杉氏や織田氏氏などの大名とも対峙しました。
信玄を代表とする戦いは、上杉謙信との川中島の戦いが有名でしょう。ライバル関係であった上杉謙信とは幾度と川中島で決戦を行っています。戦国時代において数多くの戦いを勝ち抜き、その戦略的な思考や軍制改革によって多くの人々から尊敬を集めたと言われています。彼の業績は、日本の歴史や現代のビジネスにおいてもに大きな影響を与えています。
武田信玄と風林火山
武田信玄の人柄を表わす言葉に「風林火山」があります。
- 疾きこと風の如く
- 徐かなること林の如く
- 侵掠すること火の如く
- 動かざること山の如し
- 事前の調査や調略などは風のように素早く行動し
- ある時は林のように静かにしっかりと静観することも必要である。
- いざことを動かすときは烈火のごとく侵攻し
- 守るべき時はどっしりと山のように構えて守る必要があると説いています。
信玄は孫子の兵法を愛読していました。兵は軌道なりの言葉に信念を置き、風林火山もこの言葉から用いられています。
武田信玄の名言からビジネスを考えよう
武田信玄の名言には、孫子の兵法を基とする言葉が多くあります。少し取り上げてみましょう。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。
信玄の考えの根幹にあるのは「人」です。信玄はその人こそが最も大切であると説いています。人の信頼を結束し、個性を見極め適材適所の活用おこなえば、強大な石垣や強固な城にも勝るほどの力を持ち合わることも可能です。
最も大切なことは、人を信じるということ。もちろん、トップが率先として人を信じなければいけません。人を信用し、いたわり、心を開いたうえでかける情けは相手に伝わります。徳川家康も愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。でなければ、聴くに値することを言う者までもが発言をしなくなる。 との言葉を遺しており、戦国武将のリーダーシップ像を伺うことが出来ます。
仇は敵なり。戦国の世では小さな仇1つが身を亡ぼすことにもなりえます。「親の仇」などは現代でも使われる言葉でしょう。心が通じていない相手への情けは仇とも受け取られかねません。どんな相手にも心を開いて接するようにしましょう。
百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず。
十人十色という言葉があります。十人寄り合えばそれぞれの考えがあって然るもの。ましてや100人ともなると考えが合わなくて当然です。ご自身の社内にも99人に褒められる人はいるのでしょうか?いるとすれば、自分の考えを持たないもの、もしくは考えを持っていても他人に示さないもの、です。
信玄は自身の家臣との合議制で物事を進めていました。評定に参加したものに意見を述べさせ、その意見を取り入れ、成果が出たことに関しては、積極的に褒美を取らせたと言います。すると、家臣はより自身の意見を述べるようになるのです。この意見のなかで皆が皆納得することはとても難しく、意見を合わせるだけの部下は必要とはしていなかったことでしょう。
戦国最強とも言われた武田信玄の強さは、この家臣の強さとも言って過言でないでしょう。
我、人を使うにあらず、その業を使うにあり。
人を活用することに長けているように思える信玄ですが、自身では人を使うのではなく、人の能力を使うのだと言葉にしています。組織のトップが人を使うとなると周囲の人間の嫉妬を買います。嫉妬は先ほどの仇とは異なる感情ですが、決して組織にプラスに働くものではありません。
信玄の家臣軍・武田二十四将には家柄は関係なく優秀なものが登用されたといいます。農民や牢人・浪人など優秀なものを自身で見抜き、意見を求めました。
有機的な組織運営の結果として、戦国最強の武田軍として認知されていったことでしょう。
一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る
結果を残すを人は常に一生懸命であることでしょう。
愚痴や言い訳を口にするものは、物事に対しても懸命に取り組んでおらず、どこか心や考え方に甘えがあるのだと思います。戦国時代は常に生と死の狭間で判断を繰り返しています。1つの判断がお家を亡ぼす結果になる、そのことを知っている信玄だからこそ、ひとつひとつの判断を懸命に下していたのです。
残念ながら、勝頼は若さゆえの判断から、長篠の戦いにて多くの家臣を失い、結果として武田家の滅亡を招きました。現代のビジネス面においても、判断に後悔がないように、懸命に下していく必要があります。
毎日の仕事に関しても、愚痴や不満が多いのは、仕事が面白くもなく、会社の中で他律的に動いている証しでもあるのでしょう。自身に権限がないから、立場にないから、とある種の無責任な考え方になってしまっています。自分自身の仕事を懸命に行い達成することで、次第に愚痴も不満も減っていくことでしょう。
一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。
信玄の人柄を表している言葉にも見えます。人はいきなり物事が出来るようにはなりません。プロのスポーツ選手も、腕のいい料理人も、仕事ができる同僚も、みな目の届かないところで努力をしています。
信玄の強い戦さの考え方には「孫子の兵法」からの教えが強く見くけられます。信玄の有名な「風林火山」はまさにそのもの。孫子の第七篇である軍争篇に記載されているこの言葉に習い、最強の武田軍を作り上げていったのです。
現在のビジネスでも、日々勉強することを心がけ、結果を挙げていくようにしましょう。
北条家の北条早雲も少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。と言葉を遺しています。日々勉強しなさいということですね。
勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む
大河ドラマで阿部寛演じる武田信玄が、徳川家康をおびき寄せたのちに口にした言葉です。この言葉は孫子の兵法の一つとしても認知されています。ビジネスにおいてまず大切なことはまず目標を定めること。毎日の仕事は目標の細分化です、一つ一つを達成する意識がなければ成功を獲得することも難しいでしょう。夢無きものに成功なし、他の偉人も言葉を変え、口にしています。
武田信玄の最期
織田信長が天下布武を掲げ、その領土をひろげることをよく思わない足利義昭は、各地の大名に通達を出し、信長を打つように仕向けます。その通達に呼応するかのように信玄は西上作戦と称し、京へのぼろうとします。その最中に病で倒れてしまうのでした。信玄は自身の死を3年は隠すようにとの言葉を遺しこの世を去ります。信玄や越後の上杉謙信が次いで倒れていく中、天は信長はを選んだかのようにその威勢を示していきます。しかし、その信長は皮肉なことにも、一番の家臣に志半ばで討たれてしまいます。信玄があと10年生きていれば、歴史は今とは異なる形に動いていたのかもしれません。
まとめ
今回は武田信玄の名言を中心に取り上げました。信玄はその人間性にも大きな魅力があり、現在でも人気の戦国武将です。特に理想とするリーダー像といっても過言ではないでしょうか?
同僚や部下に自身が心を開いて接することで、信頼関係を築き重用する、そんな上司やトップの下で働きたいですね。
それでは皆様、良い社畜ライフを☆