
現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います
戦国武将・織田信長の名言
今回取り上げた言葉は戦国時代の英雄「織田信長」の言葉として遺っております。

織田信長は戦国時代三英傑の1人として皆様もご存じではないでしょうか?家督争いの後、桶狭間の戦いにて当時最も天下人に近いといわれていた今川義元を討ち取りその名を世に広めていきます。
信長の名言の意味とプロ社畜の解釈
信長の名言
「仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ」
信長軍の特徴は天下布武の元、自身の有力武将に各方面の制圧を任せています。任命された武将は自身の戦略をもとに、信長の命に応えるべく自身の役割を全うするのでした。

信長の人材登用術には目を見張るものがあります。交渉話術に長けた秀吉は勢力の大きい対毛利として中国方面、武力統率に優れた柴田勝家は対北陸の上杉方面へとそれぞれの適性を見極めているように思います。
プロ社畜の解釈だと・・・
仕事というものは与えられるものではない、自身で考え、行動し、結果を出すものである。

現代の言葉ではPDCAを回すがピッタリではないでしょうか?
信長の功績とその生涯

桶狭間の戦い
尾張を平定した信長において危機的な状況が訪れました。当時駿河国を治める今川義元が上洛に向け尾張へ侵攻したのです。当時の今川軍は駿河国に加え、三河をも支配しその軍勢は4万・5万ともいわれており、この今川義元を討ち取った桶狭間の戦いで織田軍はわずか3千であったともいわれております。
この戦の前に信長は「敦盛」を舞います
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
当時の織田軍は兵数こそ及ばぬものの常備軍であったと言われています。当時の兵は農兵が多く、平時は農民、戦時は兵士として駆り立てられほとんどが訓練もままならぬ者でした。一方、信長の兵は常時訓練を受ける兵であり、戦場でその強さと統率が発揮されます。義元を討ち取った以降、信長の名前は世に広まっていくのでした。

寄せ集めの兵では統率も取れず脆さが出てしまいます。現代におけるブルックスの法則にも似たような事例かと思います。
将軍の擁立と上洛
当時の幕府は形骸化しており、将軍である足利義輝もクーデターによりその命を落としてしまいます。美濃を平定した信長は足利義昭の上洛を実現させその名をさらに世に知らしめます。この頃の信長は平和社会の実現を目指し、自身の文章に平和をもたらす霊獣「麒麟」の麟をかたどった花印を使用するようになったとも言われております。あの大河ドラマの題材はこの花印からきているのかも知れません

現在の岐阜県の名前は織田信長が命名したと言われております。中国の故事に習い「岐山」と「曲阜」の2文字を掛け合わせた文字のようです。
2度の信長包囲網
浅井・朝倉の勢力により命からがら逃げ出した金ケ崎の戦いをはじめ、信長の勢いに恐れをなした各国の大名は信長を標的とした包囲網を繰り広げます。2度目の包囲網を起こした人物は過去に自身が擁立した義昭でした。義昭は上杉・武田と各地の有力大名に働きかけ信長へと迫りかけますが、その最中に上杉謙信、武田信玄と相次いでなくなりその包囲網はやがて消滅してしまいます。包囲網では信長の家臣団が大きな働きをみせ数々の窮地を救います。家臣団の働きやライバルたちの没死も含め、まるで時代が信長を選んだかのようでした。
そしてその信長にも・・やがて自身における最大の出来事が起こります
本能寺の変と信長の最期
信長の家臣団は歴史に名を残す猛将が多く、現代に至る礎を築いた者ばかりです。のちの天下人となった羽柴秀吉、義に散った柴田勝家などその名を知らぬ者はないほど有名な家臣ばかりですが、最も影響があるのは「明智光秀」ではないでしょうか?
機内方面軍の司令官でもあり織田軍の有力武将でもありました光秀ですが、ご存じのとおり本能寺の変の真犯人として様々な説がありますが定かではありません。
信長の一言「是非に及ばず」は本能寺において迫り来る桔梗の紋を見てあの光秀が起こしたことであるから逃げ場もないだろう、仕方のない・・と覚悟を決めた一言であるとも言われております。仕事は自分で探して、創り出すものだと遺した信長にとって、最も信頼していた部下にその命を取られるとはなんとも言いがたいものでもあります。


名言の使い方
ルーティンワークなどで仕事に対し閉塞感やモチベーションを保てない部下や後輩へ
仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ・・・

仕事のモチベーションを保ち続けることは難しいこと。悩んでいる部下や後輩へ励ましの意味で使ってあげてほしいですね。
人材を見極める事が上手であった信長の組織図について取り上げています。
まとめ
今回は有名な織田信長の言葉を解説いたしました。織田信長は誰よりも人を見抜く事に長けている人物であったかのように思います。1560年の桶狭間の戦いからわずか15年ほどで時の朝廷から実質的な天下人として認められています。
その陰には優良な部下とその才を誰よりも早く的確に見抜く信長の天性の才、そして誰よりも人垂らしであったのかも知れません。現代にも通ずるこの信長の名言を胸に今日も素敵な社畜ライフを送りましょう!




