織田信長の名言に学ぶビジネス論。仕事は自分で創り出すものだ。

織田信長の名言・仕事は自分で創り出すものだ

現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います

※当ページは一部にプロモーションを含みます

戦国武将・織田信長の名言

今回取り上げた言葉は戦国時代の英雄「織田信長の言葉として遺っております。

織田信長 引用元:Wikipedia

織田信長は戦国時代三英傑の1人として皆様もご存じではないでしょうか?家督争いの後、桶狭間の戦いにて当時最も天下人に近いといわれていた今川義元を討ち取りその名を世に広めていきます。

信長の名言の意味

信長の名言

「仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ」

信長軍の特徴は天下布武の元、自身の有力武将に各方面の制圧を任せています。任命された武将は自身の戦略をもとに、信長の命に応えるべく自身の役割を全うするのでした。

プロ社畜の解釈だと・・・

仕事というものは与えられるものではない、自身で考え、行動し、結果を出すものである。

社畜モンキ
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現代の言葉ではPDCAを回すがピッタリではないでしょうか?

織田信長の功績

戦国三英傑の中でも人気の高い、織田信長の功績を考えてみましょう。

まず、戦闘の面では

  • 父の信秀でも成し遂げなかった、戦乱続きの尾張を平定する
  • 桶狭間の戦いにて今川義元を討ち取る
  • 将軍を擁立し、上洛を果たす
  • 各地の一向宗の一揆を鎮圧する
社畜モンキ
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織田家は尾張国の一族ですが、ルーツは福井県や平家にあるとも言われています。熾烈な家督相続の後に、あの桶狭間の戦いが起こるのですね。

織田信長の戦における勢力拡大と、天下布武の勢いは、まさに天に愛されているかのような功績でした。その裏側には信長の軍勢の強さと信長自身の政治力があったのでしょう。目新しいものを積極的に取り入れ、策略的に皆を取りまとめる姿があったのです。

織田信長のビジネス論

天下布武を掲げた信長のビジネスの考え方を学んでみましょう。強かった信長軍の裏には、信長による発展的なビジネスの考え方がありました。

兵農分離政策による武力の強化

戦国の時代、多くの民は平時は畑を耕し、戦時は戦場へに駆り出されることがほとんどでした。信長の軍隊は、職業としての武士を自身の城下に住ませ、戦いに集中させていたのです。信長の家臣として古いのは前田利家。若いころは血気盛んで槍の又左とも言われていた利家は、信長の母衣衆とも呼ばれる精鋭部隊として名を挙げ、百万石の大大名へと自身の身を興していきます。

社畜モンキ
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戦を行うと多くの農民を失ってしまうので、国が痩せていきます。さらに、寄せ集めの兵では統率も取れず脆さが出てしまうもの。信長の策略はその後の常識となっていくのでした。

楽市令、楽市楽座の実施

この当時、商売を行うには「」と呼ばれる商売人の組合に入る必要がありました。座は当時の公家や寺院に一定の税を払う代わりに、自分たちがその土地で独占的に商売を行うことが出来ます。座の制度の中では一部の権利者だけが豊かになる仕組みでした。一方、信長は楽市楽座と呼ばれる政策を行い、美濃や近江・安土など自身の領土での商いを奨励した結果、多くの商人が行き交うようになります。それは民が増えることも意味しており、豊かな国づくりをにつながったのです。

社畜モンキ
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当時は戦が多く、戦後の国は民も疲弊し、痩せていきます。復興や発展には沢山の資金が必要です。商いが活発になることは結果的に国が豊かになるとの考えで政策を行っていました。商いを奨励するために関所と関税も撤廃しています。

鉄砲の実践導入

信長の戦術で有名なものは、火縄銃の三段撃ちともいえるでしょう。長篠の戦いにて当時最強ともいわれた、武田の騎馬隊を火縄銃で討ち取った戦です。当時の火縄銃の威力は強力であるものの、玉の仕込みなどの所作に手間がかかり、とても実践で使える代物ではなっかたそうです。この戦において最も注目されるのは信長軍の財政力です。この戦で信長軍は3000丁の火縄銃を用いたと言われています。大坂・堺の港を抑えていた信長は、豊富な資金を用いて、交易により火縄銃を調達したと言われています。

社畜モンキ
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ランチェスターの戦略・二次法則が当てはまる事例です。現代では戦略として認知されていることを、信長は実行しているのがすごいですね。

拠点を移動する

信長は尾張の武将です。しかし、信長は自身の勢力を拡大するにつれて、当初の那古野城から清州城、小牧山城、岐阜城、安土城とその拠点を変更しています。もともとは敵地である場所に居を構えることで、民の信用と信頼を得るように働きかけたのです。

信長が領地を拠点にして人が集まった結果、商売が盛んになり、民の不平不満は少なくなります。さらに、安土は北陸方面や堺・京などの交通が交わる重要地です。この地に構えることで、天下布武を掲げ、日本各地を攻略していた信長軍からの情報や、人員の交流を活発にする働きも見込めました。

社畜モンキ
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尾張統治の時代は那古野城や清州城とその規模に合わせて居城を転居しているのがわかります。安土の次はどこに移そうとしたのでしょうかね?堺かな?

織田信長のビジネス論

仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ。この言葉の背景には当時の織田軍にどのような考え方があったのでしょうか?

柔軟性を持った聞く力・取り入れる力

今回取り上げた政策の多くは信長が発端の政策ではありません。楽座などは近江の六角が行ったものが始めとされ、今川家や北条家も行ったとされています。信長の魅力は自身の見聞により判断し、良いと思ったものは積極的に取り入れることです。新しい技術やアイディアを信長のもとで最大限に発揮されといっても過言ではありません。現代でも基礎技術をいかに発展・応用させるかということ。物事を上手に活用するものが、いつの時代も結果を残しているのです。

適材適所の人員登用術

天下布武を掲げる信長の前には各地の有力戦国大名がおり、一筋縄ではいきません。現代ほど交通網や通信手段が発達しているわけではなく、1から10まで自身の判断や行動の指示を受けているようでは、それらの大名に足元をすくわれてしまいます。戦地で状況を見極め、自分自身で考え、天下布武に向けて最大限の成果を発揮できる人材を求めていたように思います。これは、現代のビジネスにも当てはまるのではないでしょうか?

信長は適材適所ならぬ適所適材として、それらの大名に見合った人材を派遣し成果を上げています。信長の人材登用術には目を見張るものがあり、人を見極める能力において最も優れた人物であった事が伺えます。

社畜モンキ
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交渉話術に長けた秀吉は勢力の大きい対毛利として中国方面、武力統率に優れた柴田勝家は対北陸の上杉方面へとそれぞれの適性を見極めているように思います。

人材を見極める事が上手であった信長の組織図について取り上げています。

名言の使い方

ルーティンワークなどで仕事に対し閉塞感やモチベーションを保てない部下や後輩へ

自分自身のやり方で成果を出しなさい。

社畜モンキ
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仕事のモチベーションを保ち続けることは難しいこと。悩んでいる部下や後輩へ励ましの意味で使ってあげてほしいですね。

まとめ

今回は有名な織田信長の言葉を解説いたしました。織田信長は誰よりも人を見抜く事に長けている人物であったかのように思います。1560年の桶狭間の戦いからわずか15年ほどで、実質的な天下人として認められています。

その陰には優良な部下とその才を誰よりも早く的確に見抜く信長の天性の才、そして誰よりも人垂らしであったのかも知れません。現代にも通ずるこの信長の名言を胸に今日も素敵な社畜ライフを送りましょう!

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