現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います
どの戦国武将の名言か
今回の言葉は武田四天王である山県 昌景(やまがたまさかげ)の言葉として遺されています

山県昌景の名言の意味
プロ社畜の解釈では
日々の事(仕事)でも初心忘るべからず、いつでも準備を怠らず心構えと準備をしっかりしましょう
山県隊はなぜにそんなにも強いのか?と訊かれた際に、、、
訓練も重要ですが、それだけではなく一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです
と答えたそうです

慢心は敵!私もそのように教えて育てられられました。すなわち教育ですね

山県 昌景の生涯
初陣と源四郎
昌景は武田信玄に仕え、信濃侵攻において初陣を果たしたと記録に残っています。
この時の一番乗りの功績により、侍大将に任命され「源四郎の赴くところ敵なし」とまで称えられます
源四郎は昌景の仮名とも言われております
信玄の嫡男が謀反を起こした際に、血族が含まれていることを知りながら源四郎は信玄につきます。
この功績により、山県の名を信玄より与えられ山県昌景と名乗るのでした
武田の赤備え部隊
赤揃えとは信玄の父・武田信虎の代より仕える飯富虎昌が始まりとも言われ、甲冑や馬印などを赤や朱の色彩で整えた編隊の事です。
当時の赤色は高級な辰砂で出されており、戦場で目立つその姿は武勇の誉れとして憧れの象徴として語り継がれたものでもあります
飯富虎昌は前出の謀反に関与したとして切腹しますが、その後は昌景が部隊と赤揃えを引き継ぎ、精鋭部隊が揃う武田の赤揃えとして戦国の世にその名を知らしめます

真っ赤な甲冑と言えば真田幸村や井伊直政も有名ですね!武田の赤揃えは戦国武将が憧れるほど強かったのでしょうね!
三方原の戦い
信濃侵攻を果たした信玄は海を手に入れるべく、上杉謙信と幾度となく戦を繰り返します(川中島の合戦)。
決着のつかぬ北方への侵攻を断念し、信長包囲網に答える形で桶狭間の戦いにて当主を討ち取られた今川領へ侵攻するのでした
今川氏の同盟国である北条氏との挟撃にも合いますがそれを退け、今川領を確保の後に三河への侵攻を始めます。
一言坂の戦いの後、西上作戦とも言われるこの三方ヶ原の戦いにおいて信玄は25,000の兵の兵を率いて侵攻を開始します
戦上手と言われる徳川家康ですがこの時未だ29歳、浜松城を素通りする信玄の動きに追撃せんとばかり10,000の兵で出陣します。
しかしこの動きは動きは家康をおびき出すための罠であり、徳川軍の2,000名の死者に対し信玄側は200名、家康は本多忠勝らの防戦によりなんとか逃げ切ることが出来たのでした
この戦で昌景は本多忠勝隊と対峙したと言われております。
忠勝隊に押し込められた際に武田勝頼隊の挟撃によりなんとかその場をしのぎきったと言われております

一言坂の戦いにも、三方原の戦いにも家康の敗走の陰には本多忠勝がおります。その猛将ぶりに「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」との言葉を遺しております。しかし家康もこの2度の敗走を糧に、後の天下取りへ成長していきます

長篠の戦い
西上作戦の途中に信玄の体調が悪化し、療養のため自国へ引き上げる中、病没したと言われております
その後家督を継承した勝頼は喪に服した後、高天神城を手中に納めた勝頼は、父信玄の果たせなかった西上作戦を実行します
この戦において最強と言われた武田の騎馬隊が織田信長の三段撃ちによって壊滅的な被害を受けます
信長は家康の増援として参戦しましたがその際、武田側では軍議が開かれています。武田四天王である馬場信春、内藤昌秀、そして昌景までもが撤退を提案しますが勝頼は聞き入れません
そして、この戦は武田軍の大敗と四天王のうち3名までもが戦死してしまうのでした
その中に昌景も含まれており、享年47の事でした
名言の使い方
場に臨んで始めるようでは駄目だ!と日々の鍛錬と心がけが大事です、
新入社員に負けないように受話器の早取りを心がけましょう!

いつの間にか社外電話は新人さんの仕事になっていませんか?あの頃の気持ちを思いだして誰よりも早く受話器取りしましょう!着信音前の赤ランプで取ります!

まとめ
今回は山県昌景を取り上げました。個人的には信長の野望で必ずと言っていいほど調略で手に入れたい武将ベスト5に入る猛将です
しかし、その武勇とは裏腹にとても悲しい最後となっております
上長の判断1つでその身が大きく左右されることは現代も同じではないでしょうか?
自身の見聞を広め討ち死にすることないように精進していきたいですね
ではみなさま良い社畜ライフを!

