現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?柴田勝家の言葉を取り上げたいと思います。
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柴田勝家の名言・辞世の句
「夏の夜の 夢路はかなき後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
今回の言葉は柴田勝家の辞世の句として遺されています
言葉の意味
プロ社畜の解釈
自分の人生は夏の夜のように短いものであった。
ほととぎすよ、私の名前が後生まで語り継がれるように雲の上まで運んでおくれ。
この歌は北之庄城で差し迫る最期を前に、妻お市が詠んだ「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」への返歌として、詠まれたと言われております。
柴田勝家の生涯
織田信秀・信行(信勝)時代
若い頃から織田信秀(織田信長の父)に仕え、織田信長の家督継承の頃には重鎮であったといわれております。この家督継承において勝家は信行(信勝)方に付き、信長と争いますが稲生の戦いにおいて敗れることとなり降伏します。稲生の戦い以降、信行と勝家の間に軋轢が生じるようになるのでした。
信行が排除を目的とした謀反を企てていると信長に進言し、それを知った信長は病を装い、清洲城へおびき出した信行を暗殺し、信行の死後は信長の家臣となります。しかし、筆頭家臣として世に知られるまでには、未だしばらくかかります。
織田信長家臣時代
勝家の名が世に出てくるのは信長上洛の頃です。
信長が足利義昭を奉じて上洛の途についたのを機に、勝家もそれに伴う畿内平定作戦の先鋒として重用されるようになります。「かかれ柴田」との異名から浅井・朝倉との姉川の戦い、石山本願寺との戦いと 織田軍の主たる戦において活躍を見せております。
信長が着々と領土を広めて行くにつれて、勝家の名も恐れられるようになっていき、一乗谷の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆の鎮圧と活躍を見せ、その後越前49万石の城主として北之庄城を与えられるのでした。その翌年には織田軍北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられることとなります。
次なる勝家の敵は加賀の一向衆と越後の雄・上杉謙信でした
本能寺の変
上杉謙信の加賀侵攻が始まると勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突。秀吉は戦線を離脱してしまい、北陸方面軍の足並みが乱れる事となり、手取川の戦いでは上杉軍の強襲を受けます。その後,謙信の死去もあり上杉軍が越後まで引き上げると、勝家の北陸方面軍は活性化していきます。
一向一揆の制圧と能登国・越中への進出を果たし、これから上杉軍と決着かと言うときに本能寺の変が起こるのでした。
上杉の魚津城を落としたばかりの勝家は知らせを受け、混乱した兵とともに直ちに居城の北之庄城へ戻ります。その後、明智光秀を討つべく大坂にいた丹羽長秀と連携して計画を立てていましたが、変を知った上杉軍の煽りを受け動けません。勝家が近江へと動いた頃には、すでに光秀が明智秀吉に討たれた後だったのです。
清洲会議と賤ヶ岳の戦いと秀吉
秀吉と勝家の中は決して良好なものではなく、北陸方面軍での争いにもある様に、しばしば争いは表面化し清洲会議で決定的なものとなります。織田家家老である勝家、秀吉の他、丹羽長秀、池田恒興によって後継者を選定される重要な会議であり、秀吉は後継者に信長の嫡孫・三法師を擁立します。
その頃の秀吉は逆賊である光秀を討った英雄として織田家内でも発言力が大きくなっており、その活躍を面白く思わない勝家でしたが、秀吉の計らいもあって信長の妹・お市と結婚を果たしております。
しかし、秀吉との権力争いが避けられないものとなり、 勝家による和平・和睦交渉も決裂し、織田家を二分する賤が岳の戦いが起きてしまうのでした。
雪が溶けきる前の2月下旬に北之庄城を発った勝家は3万の兵とともに南下を始めます。対する秀吉軍は5万とも言われており、両者は北近江・余呉で対決が起こります。激戦を極めるこの戦いにおいて、勝家側の前田利家の軍勢が突如として戦線を離脱します。士気が下がる勝家軍からは次いで不破勝光・金森長近の軍勢も退却し、本陣に攻め込まれた勝家は自身の居城・北之庄城へ敗走。居城へ戻った勝家は秀吉軍に包囲されますがその先方には前田軍の姿があり、戦前よりすでに秀吉によって調略をされていたのでした。
居城へ敗走する勝家はその途中に前田家の越前府中城に立ち寄り、所望した湯漬けを平らげると利家に今までの働きに感謝を示し、秀吉に付き家名を存続させるよう言葉を残したとも言われております。
包囲された勝家は秀吉の配下として甘んじるよりは潔い死を選び、妻お市の方と自害するのでした。
勝家の生き様
織田家のNo2として確固たる地位はありながらも羽柴秀吉によって明智光秀が討ち取られてしまいます。この事を最も悔やみながらも賞賛したのは勝家だったのではないでしょうか?
勝家は秀吉と刃を交える事を避けるがためにいくつかの工作を行っています。しかし、秀吉からの条件をのめず、結果的には最も信頼していた部下にも裏切られてしまう結果となります。それでも部下をとがめずに織田家のNo2として最期の幕を引いた勝家の生き様は、美談として語られるものであると思います。
秀吉としても当初から命を取るまでは考えていなかったのではないでしょうか?社内でも若手の台頭に思うところもあります・・・社畜も年を重ね、少し考えるようになりました。
名言の使い方
サビ残を悔やむ気持ちはホトトギス飛んで果てまで上の耳まで
勝家の歌は足利義輝の歌が元ネタとされています。五月雨は露か涙か不如帰(ほととぎす)わが名をあげよ雲の上までとされており、義輝が暗殺された際、その無念さを詠んだとも言われております。サビ残をする自分が悪いのか、させる会社が悪いのか、、、労働監督所さまご判断下さい。
まとめ
この度は柴田勝家を取り上げてみました。
織田家随一の猛将であり、鬼の権六として恐れられてもいました。戦にめっぽう強いイメージですが、部下には前田利家・佐々成政を信長より預けられており、信頼も厚く政治においても活躍を見せております。
秀吉にとっては信長の最側近であった勝家のカリスマ性に、恐れを抱いていたのかも知れませんね。
いつの世も政治と言うものは難しいものです。
それではみなさま、良い社畜ライフを!