本田忠勝の名言「槍は自分の力に合うものが一番」をプロ社畜が解説します。

現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います。

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槍は自分の力に合うものが一番

戦国一の猛将、敵武将でさえ惚れ込んだ男、今回の言葉は「本多忠勝」の言葉として遺されています。

本多忠勝:良玄寺蔵

本多忠勝の名言と言葉の意味

プロ社畜の解釈として

自身の立場をわきまえ、身の丈に合った奉仕を行うべ

社畜モンキ
社畜モンキ

忠勝の辞世の歌に「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」とあります。忠義に生きた忠勝は主君を残し自身が先立つことに、無念さを滲ませていたのかも知れません。

本多忠勝の生涯・功績

出生と初陣

松平家最古参の譜代本多氏・本多忠高の長男として生まれます。幼い頃より松平元康(徳川家康)に仕え、13歳の時に大高城兵糧入れにて初陣を果たすのでした。桶狭間の戦いにて今川義元が敗死したのち、家康が今川家から独立すると19歳にて家康の旗本先手役に命ぜられ、以後は常に家康の元に住み旗本部隊の将として活躍を残すのでした。

武勲と徳川四天王

織田信長と家康の関係は清洲同盟以降、織田家の主たる戦に徳川も参戦することとなります。越前朝倉攻めにおける姉川の戦いでは、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して、無謀とも思える単騎駆けを敢行しています。その単騎駆けをする忠勝を救おうとした結果、家康軍の行動が反撃となり、朝倉軍を討ち崩しすこととなったともいわれいます。その中で忠勝は、朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門を一騎討ちで負かし、名を馳せるのでした。

その後、忠勝を語る上で外せないエピソードをご紹介しましょう。

信長包囲網による武田信玄の西上作戦において、信玄は徳川家康の所領である遠江国へ侵攻を図ります。二俣城を信玄に抑えられては為す術が無くなる家康。忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、自身も3,000の軍勢を率いて出陣します。先行していた忠勝・信成は、先読みしていた信玄軍と遭遇し、予期せぬ形で戦が始まります。突然の開戦により、形勢の悪い家康は撤退を決めますが、武田軍の猛追に合います。この際、殿を務めたのが忠勝でした。一言坂の下という不利な地形でもありながら、忠勝は殿(しんがり)を務め、猛追する武田軍に応戦します。

この忠勝の猛将ぶりに武田軍・小杉左近は道を明けすよう指示を出し、家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八という忠勝の武功を称える言葉を遺しています。

社畜モンキ
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この言葉は忠勝の勇将っぷりを表わすのに今日でも有名な言葉ではないでしょうか?その勇敢な立ち振る舞いに敵武将も魅了されたのでしょうね。

本能寺の変と伊賀越え

家康の数ある戦の中に本田忠勝あり。この勇将っぷりは賞賛され徳川四天王としても周囲の大名に認知されるほどでしした。その忠勝・家康に大きな事件が起こります、信長が本能寺で明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こるのでした。

家康は信長による接待を受けるため安土を訪れていましたが、京、堺と滞在する中、この本能寺の変が起こります。取り乱し腹を切ると言い張る家康を、忠勝が諌めて伊賀越えが行われます。当時の伊賀国は信長による一揆衆の殲滅により、危険地域として認知されておりました。まさに敵地の中を家康は、わずかな供回り衆とともに命からがら行進します。忠勝の説得があったからこそ、家康の伊賀越えが後生に残されていると言えるでしょう

羽柴秀吉と忠勝

信長亡き後は羽柴秀吉がその野望を引き継ぎ、天下統一へと奔走します。それを面白く思わない信長の次男・織田信雄は、家康や関東の北条氏、四国の長宗我部等と秀吉包囲網を形成し対立が鮮明になっていきます。

秀吉と家康の対立が鮮明になる中、両社が直接的にぶつかり合う小牧長久手の戦いが行われます。家康の最も信頼する家臣である忠勝も行動を起こします。武功もさることながら優れた軍略家でもあり、忠勝の「飴と鞭」をうまく利用した外交煽動によって、本気で丹波国衆達を支援し、秀吉包囲網の形成に一役かっていることが窺えます。当初忠勝は留守を任されていましたが、秀吉方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き駆けつけると、自身も戦場へ参陣するのでした

忠勝はわずか500名の兵を率いて大軍の前に立ちはだかり、龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたと残っています。その自身の命と引き換えとした行動に、姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じたとされ危機は去りました。豪胆な振舞いや活躍などにより秀吉からも、殺すには惜しい・東国一の勇士と賞賛されています。

隠居

秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍し、豊臣恩顧の武将の監視役にあったたともいわれてます。監視役でありながらも宇喜多秀家、石田三成、島津義弘隊への追撃を行い首級を90も上げたとも言われ、合戦後はその功績により伊勢桑名へ10万石で入り桑名藩を立藩します。

立藩後は「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行い、今日まで続く桑名市街の基礎として現代まで語り継がれています。その後の忠勝は病にかかることから隠居を申し出ますが、一度は家康に留意されています。しかしながら、その後病状の悪化により家督を譲り63歳でこの世を去るのでした。

本多忠勝の槍・蜻蛉切(とんぼきり)

そもそも、本田忠勝はどのような槍を持っていたのでしょうか?

忠勝の愛槍は「蜻蛉切」、その名の由来は、戦場に飛んできた蜻蛉(とんぼ)が槍先に当たったところ真っ二つに切れてしまった、との逸話から来ています。この槍の長さは6メートル近くもあったとされており、忠勝は戦場でこの大槍を振り回して数多くの武功を遺したとされています。

現在では天下三名槍の一つとして、多くの人に知られています。

社畜モンキ
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他は「日本号」「御手杵」の名前があげられます。槍は自分の力に合うものが一番とありますが、日本一の猛将が持ち合わせるにふさわしい槍ですね。

名言の使い方

ビジネスにおいては背伸びをせず、

自分自身に見合った車に乗ります!

社畜モンキ
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社内で上司や社長よりも高価な車に乗っていると、妬みや嫉妬のもとになりえます。槍は自分に合ったものが一番。と身分相応の持ち物を持つように心がけましょう。

まとめ

今回は本多忠勝を取り上げました。

戦国一の猛将とも称えられ、誰よりも主君への忠義を忘れない姿勢は、男の中の男と言えるでしょう。家康の家臣でありながら織田信長・豊臣秀吉からも愛され、家康の天下取りの陰には本多忠勝があったと言っても過言ではありません。

戦場で一切の傷を負わなかった忠勝が、死の数日前に自身の小刀で過ってけがをしたと言います。「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と小言を言ったとのことですが、この一言に忠勝の人生が伺えますね。

それではみなさま良い社畜ライフを!