現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さるビジネス戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います
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上一人の気持ちは、下万人に通ずる
今回の言葉は肥後の虎こと「加藤清正」の言葉として遺されています。
言葉の意味をビジネスとして考えてみよう。
プロ社畜の解釈だと
トップ(社長)の気構えは良くも悪くも部下に影響する。
どんなときでも気を抜かないでおきましょう
いい意味でも悪い意味でも使えそうな言葉です
戦も会社も士気がすべて。一つでも気を抜くと一気に崩れ去ってしまうのです。類似する名言に北条氏綱の名言がありますね。
加藤清正の功績
加藤清正とは
豊臣秀吉の子飼いとして幼少の頃より寵愛を受けた肥後熊本藩初代藩主、通称は虎之助 。戦場での功績が多く,秀吉の中国攻めに行動を共にしここから多くの兜首を挙げていきます。
秀吉と明智光秀が直接対決した山崎の戦いやその後の賤ヶ岳の戦いでは敵将を討ち取り、賤ヶ岳七本槍の1人としてその後の所領を賜っています。秀吉からの寵愛は厚く豊臣政権の財務官僚としても才を発揮しており、関ヶ原の戦いにおいては徳川方に付き、その後は熊本藩主として現代に残る熊本城などを改修するに至ります 。
どのような人か
秀吉に生涯忠を尽くし義に厚い人間像が伺えます。戦以外にも治水政策・商業政策にも優れた才を発揮し現代に至るまで清正公として親しまれております。
治水事業
白川の下井手堰、馬場楠井手、渡鹿堰をはじめ、菊池川の石塘による付け替え、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遙拝堰の四大河川の治水とかんがいを整備するとともに、有明海、不知火海の新地干拓を進めました。
商業政策
佐々成政が肥後統治に失敗した後、同国は長く土豪衆がひしめく荒れ果てた国でした。その当時の出来事を宣教師は「これほどまで貧しい国は見たことがない」と書き残すほどです。清正は積極的な農業政策と南蛮貿易により領地経営を進め、領民から神様のように慕われるようになりました。
清正の戦歴と生涯
賤ヶ岳の戦い以降は官位を与えられるなど順調に戦歴を重ねていき、小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定に参加し、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援に当たると残されています。
その後、2度の朝鮮出兵文禄・慶長の役では主力として満州オランカイ侵攻を果たしています。しかし清正と石田三成、小西行長らとの溝が深まり秀吉死去の後には対立が決定的になります。秀吉・前田利家死去の後には福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗すると徳川家康への接近を強めることとなるのでした。
その後の関ヶ原の戦いでは徳川方につき、戦後には小西旧領の肥後南半を与えられ52万石の大名となり今日の熊本県の礎を築くのです。
加藤清正の虎刈り
清正の朝鮮出兵時に自軍の兵士や馬が虎の被害に合い、怒った清正は虎の喉元を一突きしたと言われており、その虎の肉を塩漬けにして秀吉に献上したとも言われております。
実際には槍ではなく銃で撃ったとも言われておりますが・・・どちらにしろ恐ろしいものですね・・
上一人の気持ちは、下万人に通ずる
今回の名言はこの朝鮮出兵時のものと言われております。
占領した自陣において、完全に武装したままの清正に対し仲間の武将がなぜ武装を緩めないのかと問いました。清正は「大将が気を許すと部下や下のものまで全て気を許してしまう。部下・部隊の統率は大将次第である」と返したと残されています。
名言の使い方
上一人の気持ちは、下万人に通ずるとも言います
ここは、新車の購入を我慢するほかありませんぞ・・・
行差益が悪くボーナスが減額しているときに社長が車を買い換えていては従業員としては働く気が失せてしまいます。あれだけサービス残業をしてボーナスが減っても、社長はベンツを買い換えているのか・・・コレはプロ社畜の実話です
ことわざに「魚はあたまから腐る」とのことわざもありますね、
こんな悪い使い方で使いたくはないですね・・・
まとめ
今回は武功名高い加藤清正を取り上げてみました。
最後まで秀吉に忠を尽くした清正は晩年、徳川方についた自家と恩義の間で揺らいでいたと言われています。忠に厚い清正をここまでの行動をさせたのは三成への抵抗心と嫉妬心もあるのかも知れません。それこそ秀吉への忠義心他ならないように思います。
それでは加藤清正公にならい素敵な社畜ライフを送りましょう!