現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?今回はコチラの言葉を取り上げたいと思います
※当ページは一部にプロモーションを含みます
北条早雲の名言
今回の言葉は北条の祖「北条早雲」の言葉として遺されています
北条早雲の名言
少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。
北条早雲の名言の意味
プロ社畜の解釈だと
少しでも時間があれば、優れた文書を読み自身の教養を高めていくことに努めなさい
とても身になる格言で、早雲自身も当時としては遅い出世だと言われております。一方で戦国時代最初期の大名とも言われており、その奇策は数多くの文書から学んだモノではないでしょうか。
北条早雲の功績
出生
備中伊勢氏の生まれであり父・伊勢盛定は室町幕府8代将軍・足利義政の政所執事・申次衆として幕府の要職に就いており、早雲生前の文の署名では伊勢盛時として名を記しています。京都伊勢氏の伊勢貞高の養子として京に上り、足利義視の近侍となりますが、義政と日野富子夫妻の間に義尚が生まれ、義視と義尚との後継者争いが始まります。
後継者問題の雲行があやしくなる中、戦国時代の幕開けである「応仁の乱」が起こり、早雲もこの乱世に身を投じていくのでした。
応仁の乱と早雲の立場
足利将軍家の権威・権力が失墜したことにより応仁元年に勃発したこの戦は約11年の継続した長い内乱です。戦の元凶は畠山氏、斯波氏の家督争いから始まり将、軍家や有力守護大名を巻き込んで幕府を東西2つに分ける大乱となりました。義視は東軍・細川勝元に擁立される形でしたが身の置き所がなく、伊勢に落ち延びます。この折り、駿河国今川義忠が上洛し、早雲の妹・北川殿と結婚をし東軍に加わります。その後の戦局が好転すると義視は京へ戻り、早雲は伊勢に残り浪人の立場となりますが、要請により義忠のいる駿河国へ出向き、今川氏の家臣として下るのでした。
義忠の死と家督相続
遠江国へ攻め込んでいた義忠が戦死してしまい、今度は今川氏で家督相続が起きます。義忠と北川殿の間に生まれた「龍王丸」は未だ幼く、成人するまでとの名目で家督代行の座に就いた義忠のいとこである小鹿範満は、成人後も家督を戻そうとはしませんでした。早雲は小鹿範満の駿府今川館を強襲し殺害します。その2年後龍王丸は元服し正式に今川家の当主となります。この際、早雲は恩賞として興国寺城を賜ります。以後、早雲は戦国三大梟雄とも称される北条家創立への国盗りへと動くのでした。
早雲の伊豆封入
興国寺城は駿河国の当方に位置し伊豆(半島)の情報が良く入ったと言います。この伊豆は情勢的に不安定であり、侵攻の好機とみた早雲が老人の格好をして修善寺の湯につかりながら周囲の話を聞き、情報を仕入れていたとも言われています。この働きから当時伊豆で最大の勢力を誇った堀越の内紛を入手した早雲は、主君であり甥でもある今川氏親(元服した龍王丸)等から兵を借り、500の兵で堀越御所を夜襲します。当主である茶々丸は逃亡し武田氏など各国の武士に擁せられながら抵抗しますが、早雲は5年の歳月をかけ伊豆を平定するのでした。この堀越は本来鎌倉公方となるべく関東に下されたもので、室町幕府が関東を治めるための出先機関として位置づけられておりました。今川氏親の一武将にしかすぎない北条早雲がこの堀越を討った事により、地位が下の者が上の者にとって代わる下剋上そのものであると言えます。応仁の乱より始まる、戦国時代の到来を告げる出来事であったことは過言でもありません。
※この伊豆封入の前に早雲は出家しており、幕府公方衆との決別を意味しているとの見方もあります
小田原城奪取
早雲は隣国の大森藤頼に、たびたび進物を贈るようになっており、その関係性が築かれていきました。藤頼は小田原城主・大森氏頼の嫡男であり、病死した氏頼の後を継いで小田原城主となっており、その行動の不審さから最初は警戒していた藤頼でしたが、次第に心を許して親しく歓談するようになっていきます。ある日の事です、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、申し出に藤頼は快く許します。勢子(せこ)とは狩猟を行う時に山野の野生動物を追い出したり、射手のいる方向に追い込んだりする役割の人を指しますが、領主などの権力者が行うような大規模な巻狩では参加する勢子の人数が数百人を超えることもしばしあったようです。
この勢子を率いて早雲は小田原に夜襲を掛けます。恐れを成した藤頼は命からがら逃げ出し、小田原城を奪ってしまうのでした。
相模平定
その後の早雲の活躍はめまぐるしく、今川家の武将として三河国へ出兵し、松平長親とも戦います。三年後には扇谷朝良・氏親らと共に立河原の戦いで山内顕定に勝利するなど、その活躍はめまぐるしく以降は相模国平定へ動きます。当時の相模国は「山内上杉」「扇谷上杉」の両上杉家の対立の家中にあり、早雲はこの対立を利用して相模全土の攻略すすめていくのでした。しかし、それは山内家・扇谷家の両上杉家と敵対することとなり扇谷に押され小田原城まで追い込まれてしまいます。
その最中、永生の乱とも呼ばれる越後国の乱・山内上杉家の内紛・古河公方家の内紛・越中神保氏討伐と多くの混乱が起き、両上杉家や幕府からの圧迫が弱まります。これを早雲は好機とみて扇谷上杉家方である岡崎、住吉城を攻め立て相模ほぼ全域を制圧し、早雲はさらに三浦半島を攻略するため、鎌倉に玉縄城を築きます。扇谷家の兵もことごとく撃退し侵攻から20年、早雲はついに相模平定を成すのでした。
名言の使い方
どんな時でも勉強出来るように、社会人なら鞄に1冊ぐらい本を入れておきなさい
入社当時先輩に言われていた言葉です。今でもビジネス本を1冊は鞄に入れ、休憩中などに読むようにしています。そんな先輩の愛読書は「パチンコ攻略マガジンでした」
まとめ
今回は北条早雲を取り上げました。
早雲は領国政策にも力を入れ戦国大名で初めての検知を行った人物でもあります。北条の氏名は嫡男の「北条氏綱」が使用し初め、以後100年の北条家の繁栄を見ることとなります。
早雲は88歳や64歳でその生涯を終えたとの説がありますが、格言にあるように常に勉強を絶やすことなく励んでいた人物であるのでしょうね
見習って私たちも励みたいものです
それではみなさま、良い社畜ライフを!