徳川家康の名言からビジネスのリーダーシップを考えてみよう。

今回は戦国武将「徳川家康」に学ぶ名言から、その生涯と現代におけるリーダ像を考えてみましょう。

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徳川家康は何をした人か?

徳川家康は江戸幕府を開いた人物であり、織田信長・豊臣秀吉と並び、戦国三英傑としても有名な戦国武将です。

社畜モンキ
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鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。

家康の人間性を表わしたこの句は有名です。どのような生涯をたどってきたのでしょうか?

徳川家康の生涯

人質としての幼少期

三河の土豪衆「松平家」第8代当主・松平広忠の嫡男として生まれた家康。幼少期は竹千代と名乗り今川家の人質として駿河で過ごすこととなります。当時は駿河の今川家と尾張の織田家の交渉材料にもされていましたが、今川義元の元で元服するに至ります。

桶狭間の戦いと清洲同盟

西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた今川義元は、2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻します。当時の織田家当主織田信長は2000あまりの兵で義元を打ち破ります。桶狭間の戦いとして知られるこの戦に、家康も今川側として参加していました。

桶狭間の戦いの後も今川家に属する家康でしたが、義元の後を継いだ今川氏真の煮え切らない態度を受け、織田信長との同盟を模索するようになります。今川家を見限った家康は、桶狭間の戦いから2年後に清洲同盟が結ばれ松平家の当主としてその名を挙げるようになるのでした。

苦汁をなめた武田信玄と本能寺の変

その後の織田家は天下を手中に収めるべく目まぐるし活躍を見せますが、その影には同盟関係にある家康の活躍もありました。朝廷より官位を賜ると姓を「徳川」と改め金ケ崎の戦い姉川の戦いとその存在感は織田家や周辺の大名の中でも大きくなっていきます。それを良く思わない武田信玄は西上作戦ともよばれる遠江国・三河国への侵攻をはじめます。当時は信長包囲とよばれる織田家へ対する各大名の侵攻が行われている最中であり、信玄もその中の一大名でした。侵攻する信玄に対し、援軍の期待できない家康は自軍のみで信玄と戦うこととなります。

一言坂の戦い・二俣城の戦いと続けて信玄に敗れた家康。自城の浜松城を悠々と通りすがる信玄に対して追撃します。しかし、信玄の策略にはまり増援として到着した織田軍や自身の有力武将を討ち死にさせてしまいます。身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、情けないその自身の姿を後生に残すように1枚の絵を残したとも言われております。

三方原の戦いでの敗走を記した:徳川家康三方ヶ原戦役画

信玄は西上作戦の最中病に倒れ、武田軍とともに甲斐へ撤退し病没します。信玄を失った武田家は長篠の戦いを経て織田家に滅ぼされるのでした。念願であった甲斐討伐を果たした信長は自城である安土へ最大の功労者である家康を招きます。その折、堺へ遊覧中の家康の元へ、信長が本能寺で討たれたとの連絡が入りますが、家康はごくわずかの供回りしか連れておらず、決死の思いで伊賀越えを果たし自城へ戻ります。その後の戦国の世は、信長死後の織田家において羽柴秀吉が台頭していく中、家康を取り巻く環境も穏やかではなくなっていくのです。

豊臣秀吉への臣従と関ヶ原の戦い

秀吉が織田家を実効支配することを党首である織田信雄は面白く思いません。小牧長久手の戦いでは信雄の命を受け家康と秀吉は対峙します。お互いが消耗する中、秀吉は信雄に講和を申し入れるとなると、信雄はこれを受諾します。寝耳に水とはまさにこの事と言わんばかりの家康。大義を失った家康は兵を納めますが、戦によって消耗した自国の被害は甚大なものであり、自身の立場も危ぶまれます。信雄を通じて秀吉からの懐柔を受けることとなり豊臣家へ降ることとなるのでした。その後、豊臣家の大老として存在感を示す家康でしたが、秀吉の死後の豊臣家は内部の亀裂も決定的になり、石田三成の西軍と家康率いる東軍の関ヶ原の戦いが起こります。

関ヶ原の戦いに勝利した家康、その存在はますます大きくなっていくのでした。

大坂の陣と江戸幕府

関ヶ原の戦い後、朝廷からの官位を受け伏見城で征夷大将軍に就任した家康。それを面白く思わない豊臣秀頼。お互いの溝が埋まらないまま、方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となります。2度にわたる大坂の陣により秀頼を失った豊臣家はここに滅び、以後200年以上続く江戸の世が訪れるのでした

社畜モンキ
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天下人へ上り詰めた家康。その人生の転換期には必ずと言っていいほど家臣の存在が取り上げられます。家臣との関係性を踏まえてどのようなリーダー像だったのでしょうか?名言と併せて取り上げてみましょう。

徳川家康のリーダー性

尾張の土豪衆出身の徳川家康がどのようにして天下を治めるまでに至ったのでしょうか?大きな要因として、徳川家康のリーダーシップが大きく影響しているでしょう。

リーダーシップとは?

一つの目標へ向かうように、集団をまとめ、導いていく能力のこと。

現代のビジネスにも必須の能力ですが、徳川家康にはどのようなリーダー性があったのでしょうか?有名なホトトギスの句から考えてみましょう。

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

信長の短気な性格を表わしたとされる一句になります。気性が激しく、一つのミスでも切腹を命じるような信長は、尾張一国から天下布武を掲げその勢力を拡大しました。自分自身の独断によって、部下を率先して率いていく姿勢は、独裁型リーダーシップであったともいえるでしょう。

鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス

秀吉は知略に長け、交渉術で天下人までのし上がった人物です。戦わずして勝つことを目的とした戦略は、信長も評価していたと言います。戦が起きると国力は低下しますが、交渉により相手方を屈服させる姿勢を取ることで、自身に丸め込む、関係重視型のリーダーシップであるでしょう。

徳川家康のリーダーシップ

では家康のリーダーシップを考えてみましょう。家康は家臣に重きを置いた民主型リーダーシップであったとも言えます。秀吉に従属した後の家康は関東移封となり、関東・北条家の旧領を治めるようになります。この際、徳川四天王と呼ばれる古参の部下には多くの知行を与えています。

主な知行

  • 井伊直政 12万石
  • 本田忠勝 10万石
  • 榊原康政 10万石
社畜モンキ<br>
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自身の信頼はもちろん、多くの部下からも慕われていた彼らに知行を与えることで、組織としての均衡を保っていたと考えられます。自分の給料が部長よりも多かったら、何を目標に頑張ればよいかわかりませんよね。

民主型リーダーシップの大きな特徴は個々の意見を取り入れ、組織の意思決定とするところです。家臣である四天王に意見を投げかけ、合意を基に最後に意思決定を行うのが家康の役割です。今川家からの独立・伊賀越え、秀吉への臣従と大坂の陣などその決定の裏には家臣との意見交換があり、いずれも家臣の話に耳を傾けた結果が江戸幕府260余年につながっているといっても過言ではありません。

徳川家康のリーダーシップを支えた徳川四天王

家康には勇敢な家臣が多くいたとも言われますが、その中でも有名なのが徳川四天王です。

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。

引用元:Wikipedia

徳川四天王

酒井忠次

徳川四天王・徳川十六将の筆頭ともされ、家康第一の功臣としても有名です。家康の竹千代時代からの家臣であり、人質として家康が今川家に居るころからも同行しています。信頼が最も厚い部下であったとも言われており、忠次を語るうえでかかせない「海老すくい」は彼の性格を表わすそのものでしょう。

本田忠勝

徳川四天王・徳川十六将・徳川三傑にも数えられる、徳川家康随一の猛将として現代でも人気の武将です。その武勇は他の大名も惚れ込んだともいわれており、織田信長からも「花も実も兼ね備えた武将である」と褒めたたえています。忠勝は実戦で一度も傷を負わなかったともいわれていますが、武勇の他にも知略にも優れており、晩年は桑名藩の発展に寄与しました。

榊田康政

徳川四天王・徳川十六将・徳川三傑にも数えられる武将。幼いころから勉学を好み、その勤勉な姿を松平時代の家康に見いだされ、仕えることとなります。戦においては本田忠勝と先陣を組むなどをし、数多くの武功を挙げています。常に自らを律し、家康に忠誠を誓う姿勢と自分に厳しい人物であった事が、晩年の行いからもうかがえます。

井伊直政

徳川二十八神将、徳川十六神将、徳川四天王に数えられる武将。「井伊の赤鬼」とも言われる、赤備えを率いて武功を挙げていきます。直政は政治的な手腕にも才があり、豊臣秀吉からも官位と豊臣姓を下賜しています。秀吉の死後、黒田如水(黒田官兵衛)・長政を盟約を結ぶことで、多くの豊臣家臣を引き入れることに成功したともいわれています。

社畜モンキ
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家康は何よりも聞くことに長け、部下の話に耳を傾けたと言われています。優秀な部下たちは、そんな家康に為に、生涯尽力するのですね。家康の名言からリーダー像を考えてみましょう。

徳川家康の名言から学ぶリーダー像

いさめてくれる部下は一番槍をする勇士よりも値打ちがある

家康がすぐ自刃したがる事は現代にも逸話として残されてます。桶狭間の戦いで今川が敗れた後、本能寺の変で信長が打たれた後が有名です。桶狭間の戦いでは、松平歴代墓所で自刃を試みたところを住職にたしなめられ、本能寺の変後では自刃して織田信長の後に続こうとするところを、本多忠勝にたしなめられています。そんな家康の言葉として遺されているこの言葉。本当は気弱な家康が信頼する家臣の事を信頼して、表現した言葉では無いでしょうか?

戦上手として知られている家康ですが、信玄の西上作戦ではフルボッコにされています。一言坂の戦いでは偵察のつもりが、信玄の手中にハマりあわや全滅になるとことでした。その中、本多忠勝が自身の命を投げ打ってまでも家康を逃そうと試みます。その勇敢な姿勢に信玄の近習である小松左近は以下の言葉を遺してます。

家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八

社畜モンキ
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秀吉との合戦である小牧長久手の戦いにおいても、家康軍を守るため1人出てきた忠勝の勇士に感涙し、秀吉が反撃を控えるように伝えたとも言われています。若さ故の過ちを忘れないように、それ以降は部下の話をよく聞き、判断するようになったのかも知れませんね。

勝つことばかり知りて、負けること知らざれば、害その身に至る。

家康が遺した言葉、その言葉には続きがあります。

勝つことばかり知りて、負くること知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。

武田信玄との戦いで、功を急ぐあまりに自軍の有力武将を討ち死にしてしまった家康。その際の教訓とも言える言葉ではないでしょうか?

この言葉の続きにはこころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべしともあり、苦しかった時期を思い出せば我慢する事もなんとも思わずいられる。怒りで判断が鈍ってしまっては誤った判断もしてしまう、大将たるものは常に冷静であるようにと、自身の事もいさめています。

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鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。この名言から表わされているのかもしれません。現代でもアンガーマネジメントなど、家康の言うとおりビジネスに怒りの感情は不要ですね。

愚かなことを言うものがあっても、最後まで聴いてやらねばならない。

家康は家臣の話を良く聞き、その意見を束ねることもあったとも言います。この姿勢は現代のリーダーシップ論において民主型リーダーシップに当たるとも言えます。

家康の言葉には続きがあります。

愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる。

何よりも組織の雰囲気と部下を尊重した家康の姿勢は徳川の天下泰平の礎として、江戸幕府の基本的な体制として残り続けていきます。大政奉還の際にも家康の考えが尊重されたのかもしれません。

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中小企業などでもトップダウン型のワンマン社長の下では何も言う者がいなくなり、イエスマンばかりで裸の王様に至ること多いのではないでしょうか?

みなさんの会社はいかがですか?

まとめ

今回は徳川家康の名言とともにビジネスにおいて取り上げてみました。家康は人質として幼少期を過ごし、我慢を重ねた人柄であるとも言えます。最後まで我慢をし天下を掴む、その姿勢は現代でもつながるものがあるのかも知れません。

家康は信長・秀吉と天下人の傍で時代を見続けてきた人とも言えます。なぜ信長は本能寺で討たれたのか?なぜ秀吉の世は長くは続かなかったのか?英傑たちの失敗を自身の課題として取り入れていったことと思います。

部下がいなければ天下も治めることができなかったと自身も諭しており、忠勝が身を引く際には思い留めるよう嘆願したとも言われております。このような部下との信頼関係を築くのも、家康のようなリーダーシップを持ち合わせる人柄ならではかと思います。現代のビジネスの世界でも家康の考え方を学んで活用していきたいですね

それではみなさま良い社畜ライフを!

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