現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います。
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戦国武将蒲生氏郷の名言
信長が惚れ込み・秀吉に愛された男。
今回の言葉は「蒲生氏郷(がもううじさと)」の言葉として遺されています。
蒲生氏郷の名言と言葉の意味
蒲生氏郷の名言
春夏秋冬どれか一つにかたよらず、家風を正すことが主将の器と言うべきであろう
プロ社畜の解説として
リーダーたるものはバランス感覚に優れ、偏った好き嫌いを出すものではない
とても厳格な氏郷ですが、この言葉に彼の信念が詰まっているように思います。誰よりも自分に厳しい人だったのでしょうね。
蒲生氏郷の生涯
織田家臣と本能寺の変
近江国の生まれであり幼少期には織田信長に人質として差し出されます。
信長からの寵愛を受け儒教や仏教、武芸を磨き元服の際には信長自身が烏帽子親となり、自身の次女を娶らせるとまで言わしめていた氏郷は、14歳で初陣を果たし、以降は姉川・長島・小谷城・長篠など織田家主要の戦いに従軍し武功を挙げております。本能寺の変においては織田一族を保護する一方、明智光秀と対抗し山崎の戦い以降は羽柴秀吉方に付きます。
秀吉と奥州移封
秀吉に従軍した後は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州征伐、富山の役と秀吉に従軍し武功を重ねていきます。
九州や小田原征伐においてもその功績を称えられ、秀吉より「豊臣姓」を下賜され、伊勢より陸奥国合図へ移封されることとなりますが、後に91万石の大大名と呼べる大領を与えられます。
この措置は奥州仕置による伊達封じとも言われていますが、城下の整備を終えると「若松」と街の名を改め、後の会津若松の地盤となる商業政策を積極的に執り行います。
その後、秀吉の朝鮮出兵にあたり九州まで出向きますが、体調を崩してしまいます。秀吉は氏郷の病状を回復する為に前田利家や徳川家康等へ医者の派遣を要請しますが、その甲斐虚しく氏郷は40歳で病没してしまうのでした。
氏郷には辞世の句が遺されており、「かぎりあれば 吹かねと花は 散るものを 心みしかき 春の山風」氏郷の心の内を表わすかのような句として遺されています。
茶の湯とキリシタン
氏郷はキリシタン大名としても有名です。
洗礼名は「レオン」とされ、自身の家臣にイタリア人を置きローマへ使節団を送ろうともしていました。高山右近や前田利家等とも交友が深いとも言われておりますが、その背景には茶に精通した千利休がいました。当時の宣教使は茶の文化・習わしをキリスト教の「聖餐のように」と本国へ説明しています。
利休の茶の湯の弟子である「利休七哲」において、氏郷は筆頭として活躍していました。他には高山右近、細川忠興、芝山監物、瀬田掃部(前田利長)、牧村兵部、古田織部など、この話は参考書物により様々な名が記載されています。いずれの書物にも氏郷と忠興は一貫して記載されており、互いに悪口を言い合い、大笑いした中だといわれております。茶の湯とキリスト教を通じて親睦を深めたとも言えるでしょう。
部下思いでとても厳格な氏郷
部下思いな氏郷ですが、同時に規律を重んじることで有名でした。2つのエピソードを上げ天体と思います。
「蒲生風呂」
家臣を召し抱え恩賞を与えるにも金銭・や領地共々乏しく、せめてもの労をねぎらうために自身の館に家臣を招待し、自身が風呂や飯の世話を行ったと言われております。
「規律を重んじる」
可愛がっていた家臣に「福満治郎兵衛」という者がおりました。
治郎兵衛は馬のくつ(沓)が解けたので、隊列を離れてしまいます。隊列を離れることは軍記違反であり、氏郷は嘆きながら斬ったのです。後に、氏郷は彼を思って嘆声をもらしたという話が残っています
名言の使い方
どんなに慕ってくれる部下がいても査定は別です。
お中元・お歳暮を贈ってくれるけれども、査定には響かないよ。
やたらと好みの進物を用意されても何か裏があるのかな?と勘ぐってしまいます。一人をひいき目で見てしまうと組織全体のゆるみ歪みにつながることも珍しくありません。評価は適正にいたしましょう。
まとめ
今回は蒲生氏郷を取り上げました。
氏郷の病死には毒殺説なども出ていますが、死後蒲生家は嫡男の秀行が継ぎます。蒲生家は秀行が未だ幼いためか重臣間の諍いが表面化し、宇都宮国18万石に減封されしまいます。その秀行自身も30歳、その子忠郷も26歳の若さで病死します。
自身への厳しい姿勢が結果的に信長・秀吉・家康の三英傑に愛されていたのかも知れませんね。
それではみなさま良い社畜ライフを!