戦国武将の名言からビジネスを勉強しよう。「佐々成政」編。

現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?佐々成政の言葉を取り上げてみたいと思います。

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佐々成政の名言

信長公に属さない国々があるのは、徳が至らないからと思いと召されて、良くないところは反省なさいませ。

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佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)

佐々成政の名言と言葉の意味

プロ社畜の解釈

誰も言えないからあえて言いますが、度が過ぎてしまうと、

部下の気持ちも離れてしまいますよ!

社畜モンキ
社畜モンキ

浅井・朝倉討伐の折、3名の髑髏(しゃれこうべ)を金箔で塗りたくり、酒の肴にしたそうです。そんな光景を見せられたら、次は自分かと、、恐怖心が芽生えてきそうですよね、、

佐々成政の生涯

出生から府中三人衆

佐々成宗の三男として生を受け織田信長に仕えます。

成宗の長男・次男が稲生の戦い、桶狭間の戦いで相次いで討ち死にし、25歳の時に比良城主となります。信長は成正を自身の馬回り衆として傍に置き、黒母衣衆の一員として仕えさせました。

母衣衆は家臣の中でも武勇に秀でたエリート集団であり、その武勇を語る逸話として長篠の戦いでは3,000名の鉄砲隊を指揮しており成果を上げます。赤母衣衆の前田利家とは良きライバル関係でもありました。

成政は北陸方面・柴田勝家の与力として、前田利家、不破光治らとともに府中三人衆として名を馳せます。その後、越後・上杉景勝の脅威が迫ると、成政に越中砺波16万石を与えれるのでした。

越中富山城と本能寺の変

当時の越中は一揆持ちの土地であり、東に上杉と脅威の重なる地でした。

成政は同地で治水事業「佐々堤」を築いたり、富山城を居城として大規模な改修を行なったりと絶頂期を迎えます。上杉軍の魚津城を攻略し、本城である春日山城をこれから攻略という時に「本能寺の変」の知らせが入るのです。

北陸方面の織田軍はその知らせに動揺し、各々各自の所領へ引き戻します。成政は景勝の反撃に防戦を取りながらなんとか富山城へ戻りますが、山崎の戦いにて明智光秀を討ち取った羽柴秀吉に、織田家の実権を握られてしまうのでした。

秀吉への臣従

信長亡き後、以後の織田家の方向性を定める清洲会議にて、勝家と秀吉の対立が鮮明になります。領地再分配でも所領を安堵されますが、勝家の与力であった成政はそのまま勝家に付くことを表明します。

しかし、勝家と秀吉が直接対決となる賤が岳の戦いにおいては、後方の上杉景勝の動きのために自身が参戦する事がきません。勝家敗戦後の成政は秀吉に許しを請う形で降伏し、所領を安堵されます。

その後の成政は、秀吉に対しての態度を改めることなく、徳川家康・織田信雄と秀吉が対立する小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉を裏切る動きを見せています。

その裏切りとは小牧長久手の戦いの最中に、秀吉方の前田利家・朝日山城を攻め入ることでした。利家の加賀国と能登国の分断を図るべく、末盛城を15,000名の兵で包囲しますが、金沢城から急行した利家に急襲を受け敗走します。

この敗走が秀吉方にの士気上昇につながり、後の信雄・家康の停戦に至るとも言われ、ますます成政の境遇は悪化していくのでした。

さらさら越え

家康の停戦に納得のいかない成政は直接交渉を行うため、三河の家康の元へ参じる決心をします。

しかし、西には敵対する利家、東には上杉、南には秀吉と孤立無援の状況で成政は、冬の飛騨山脈・北アルプス越えを決行します。

越中と信州をつなぐ抜け道であった針ノ木峠を、50名近くの家臣とともに出立した成政が峠を抜け松本城にたどり着いた頃には15名ほどとなっており、その過酷さを伺うこととなります。

さらさら越えを描いた錦絵(歌川芳形画)

浜松城で家康に接見した成政でしたが、その説得は失敗に終わります。命からがら真冬のアルプス越までした成政はおさまらず、信雄の説得にも参りましたがここでも失敗します。

それでも反秀吉・利家の体制を貫く成政に、ついに堪忍袋の緒が切れた秀吉は、さらさら越の翌年100,000名の兵で富山城を包囲します。

富山の役と呼ばれるこの討伐戦は、織田信雄の仲裁を行わせる秀吉の裁定により、反旗を翻した成政の処遇は、御伽衆として秀吉に仕えることとなります。その後、九州征伐に参加した事で功を上げた成政は、九州肥後一国を与えられました。しかし、秀吉の言いつけを破った事により、逆鱗に触れ切腹を命じられます。

この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」この辞世の句を残し53歳の生涯を終えるのでした。

言葉の背景・浅井朝倉の髑髏

浅井朝倉を滅ぼした信長は祝宴として部下を呼び寄せます。その際、部下の前に披露したのが金に塗り固められた朝倉義景・浅井父子の髑髏(しゃれこうべ)。この髑髏を酒の肴にしたとか、髑髏で酒を汲んだとも言われております。成政は人の所業とは思えぬ信長の行為に対して進言をしますが、信長は成政の決死の忠告であるその言葉を聞き入れたとも言われています。

社畜モンキ
社畜モンキ

他の武将はこの行為をめでたいと舞う中、成政は打ち首を覚悟しての一言だったと思います。イエスマンばかりではいけない・・・信長自身もそう感じ取っていたのではないでしょうか?

社畜モンキ
社畜モンキ

徳川家康の名言に、いさめてくれる部下は一番槍をする勇士よりも値打ちがあるとあります。部下の話でも聞き入れる懐の深さがあってからこそでしょう。

名言の使い方

会社を私物化する社長・取締役等に言ってやりましょう!

良くないところは反省なさいませ!

社畜モンキ
社畜モンキ

会社で働く従業員は、このベンツのために働いているのかぁ・・・あの愛人のために汗をかいているのかぁ、と気づいてしまうとモチベーションも上がりません。誰かが口にしないといけません!言う前に、退職願いだけ準備しておきましょう。

まとめ

今回は佐々成政の言葉を取り上げてみました。

言葉を信長に提言した際、信長は成政が口にした「」について、政道について語り合ったとも言われております。自身の命を投げ打ってまで提言した成政の忠誠心を汲んだ信長と、その言葉を受け止めた懐の深さに感心した成政は、さらに忠誠心を高める結果になったとも言えるでしょう。

後年、秀吉は成政を切腹に追いやったことを悔やんだとも言われております。

秀吉にとっては崇拝する信長の最側近である、馬回り衆・黒母衣成政への憧れが、いつまでも心に残っていたのかも知れませんね。

それではみなさま、良い社畜ライフを!

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