戦国武将名言・陣中で死ぬこそ武士の本望、竹中半兵衛の名言を解説します。

現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います

※当ページは一部にプロモーションを含みます

竹中半兵衛の名言

今回の言葉は羽柴秀吉の参謀であり軍師である「竹中半兵衛」の言葉として遺されています

竹中半兵衛の名言と言葉の意味

プロ社畜の解釈では

武士として名を挙げた以上、自身が没するのは戦の中でありたい

秀吉の軍師として、武士として、半兵衛の最後のわがままのように思います。この言葉を当時の秀吉はどのような気持ちで聞いていたのでしょうか?

半兵衛の生涯とともにこの言葉の思いを振り返りましょう

竹中半兵衛の生涯・功績

出生と初陣

竹中半兵衛は通称で本名は竹中重治(しげはる)美濃国の生まれです。斉藤道三と義龍の戦である長良川の戦いおいて、道三側で初陣をつとめましたが、戦後は義龍に仕えます。美濃国は斉藤家が治めており、当時の織田信長を以てしても攻略に難を極める地域でした。しかし、義龍は若くして病没してしまいまい、家督を嫡男の龍興が継ぐこととなります。

美濃侵攻と半兵衛の城取り

この期を好機とみた信長は、美濃を攻略するために侵攻を図りますが、半兵衛の策略と戦術の為に攻めきれず難を極めてました。一方の斉藤家当主龍興は、酒色に溺れ政を疎かにするがあまり、半兵衛や西美濃三人衆を政務から遠ざけていました。半兵衛は居城の稲城山城を襲い、当主龍興を逃亡させてしまいます。

半兵衛の城取りとも言われるこの事件は、自身が当主を務めるが為のクーデターでは無く、龍興を懲らしめる目的の事件と言われており、若い龍興に当主として自覚させる為の事といわれております。実際に半年ほどで半兵衛は城を龍興に明け渡し、自身は謹慎するための隠居生活を送ります。その後、美濃国は信長に侵攻され道三から続く斉藤家はここに没し、美濃は信長の領地となってしまうのでした。

織田信長と秀吉と三顧の礼

半兵衛を買っていた信長は、何としてでも自身の家臣に加えたいと浪人の身である半兵衛を口説きます。美濃攻めで功績を収めた秀吉は半兵衛の元を訪れ、三顧の礼を以てして半兵衛を誘い入れます。半兵衛はその姿に感服し、信長には仕えずともこの秀吉に仕えるとして、以後秀吉の与力として世に名を知らしめていくのでした。その後は信長包囲網において調略でも活躍し、軍師半兵衛として織田家・秀吉にとって無くてはならない存在になっていきます。

半兵衛と官兵衛

織田家中国攻め総大将として、秀吉が任命されると半兵衛は秀吉に同行します。この時の中国地方は毛利の侵攻と宇喜多の態度により、戦況は激化。小寺家老黒田孝高の居城姫路山城を播磨・但馬戦線の本拠地として定めた折、黒田官兵衛が加わります。

その後の秀吉軍は、激化する播磨を治め半兵衛と官兵衛は両兵衛と言われるほどの活躍します。その際、知行の増加を行わない秀吉に対し不満を漏らす官兵衛に対し、知行の約束を書いた書状を目の前で燃やし、「こんな書状をあてにしているから不満が生まれてしまうのだ」と説いたといわれています。

衝突を繰り返す半兵衛と官兵衛、しかし中国攻めに関してはこの官兵衛の活躍があったと言っても過言ではありません。混戦を極める播磨戦線を調略で落としていく官兵衛に半兵衛は、若さ故の危なさを覚えていたのかも知れません・・・

過去に秀吉が半兵衛に「半兵衛とあろう者がそんなに貧相な馬に乗っては周りの者に示しが付かないのではないのか?」と問うた事があります。

半兵衛は「馬など乗り捨てるくらいでちょうど良いのです。高貴な馬だと失ったときに惜しんでしまう。惜しんで勝機を逃したともなると元も個もありません」と返したように、その身を律してこそ功が取れると考えていたのでしょう。官兵衛には厳しく接していたと言われる半兵衛ですが、その才を見抜いていたからこその愛情の裏返しとも言えるとも言えるでしょう。

官兵衛の恩

中国攻めも半で荒木村重が謀反を起こすと秀吉軍は西に毛利、東に荒木と板挟みの窮地に陥ります。調略を用いてこの地を攻略してきた官兵衛は有岡城へ説得交渉に出向きますが、村重に捉えられ一年近く幽閉されていたと言われています。その事を知らない信長は、帰らぬ官兵衛が村重方に裏切ったと思い、その息子を処刑せよと下すのでした。

半兵衛は信長の命に従うフリをしつつ、官兵衛の息子をひきとり自身の家臣の家で匿った上で、信長には処刑したと嘘をつきます。命からがら戻った官兵衛はこの半兵衛の計らいに感謝し例を申し上たいと言いますが、それはかなわぬ事・・・すでに半兵衛はこの世を去った後だったのです。

以降、官兵衛は備中高松城の水攻めにおいても半兵衛の兵糧攻めを元に行い、軍師としての志を引き継いでいきます。

秀吉との別れ

半兵衛の病因は結核と言われています。秀吉との三木城攻めの最中に吐血したとも言われており、秀吉の説得を受け京で療養しますが、病状は悪化の一途を辿り、症状はよくなりません。

密かに病床を向け出した半兵衛は三木城攻めの陣中に戻り帰るよう説得する秀吉に対し 陣中で死ぬこそ武士の本望 と伝え、程なくしてこの世を去ったといわれています。半兵衛の策と志は三木城攻めのみならずその後、官兵衛に受け継がれ備中高松城、中国大返し、天下統一と受け継がれていくこととなるのです。

名言の使い方

頑張ってくれる部下がいても休みを取らず、働き詰めでは体を壊してしまいます

このプロジェクト!達成できるのであれば、陣中で死ぬこそ武士の本望です

と部下の一言

社畜モンキ
社畜モンキ

いや!休めよ!頼むから休んでくれよお願い!

と突っ込んでしまうほど休まず働いてくれる部下はいますか?

ありがたいんだけど・・・嬉しいんだけど・・休むことも仕事だよ?とちゃんと教えてあげましょうね

まとめ

今回は竹中半兵衛の言葉を取り上げてみました。

半兵衛自身も36才の若さでなくなっておりますが、彼の志は官兵衛に受け継がれております

プロ社畜が解説する戦国名言「一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる」

誰よりも武士として強く生き、志高く律していた半兵衛は現代においても偉大な軍師として大河ドラマなどでも主要な人物として度々書かれております

私たちもこの半兵衛の様に志高く忠に努めて自身を見つめていきたいように思いますね

それではみなさま、良い社畜ライフを!