現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います
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命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり、石田三成の名言。
今回の言葉は治部少輔・石田三成の言葉として遺されています
石田三成の名言と言葉の意味
プロ社畜の解釈
死ぬことよりも、自身の志半ばにしてこの世を去ることがとても悔やまれる。
この言葉は関ヶ原の戦い後、徳川側へ拘束された際の言葉と言われております。どこかで何かを掛け違えたのか、、、これから処刑される事を悟り、遺した無念の言葉です。
石田三成の生涯
秀吉との出会い
当時長浜城主であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は鷹狩りの最中に観音寺へ立ち寄りました。
寺小姓の佐吉は大きな茶碗にぬるめのお茶を一杯に差し出し、2杯目は先ほどよりもやや熱いお茶を茶碗に半分。3杯目は小さな茶碗に熱いを茶を差し出します
「三献の茶」として現代にも語り継がれる秀吉と三成の出会いであり、
以降、三成は秀吉の片腕として頭角を現わしていきます
織田信長が本能寺の変にて亡き者となると、織田家の跡取りを巡る戦いにて三成も奮進します。
柴田勝家との賤が岳の戦い、織田信雄・徳川家康との小牧・長久手の戦いにおいても活躍を果たすのでした。
豊臣政権時代・従五位下・石田治部少輔(じぶのしょう)
秀吉が関白に就任すると三成も「従五位下・治部少輔 」に叙任されます。関白や従五位下とは朝廷から賜る官位の事であり、律令制下の官職と位階(官僚の序列)の事です。当時の武将は官位相当制と呼ばれる位階による、官人の序列と機構における官職の位置との対応関係があり、幕府の衰退に伴い、直接朝廷に官位を申請する例が急増しておりました。
例えば太政大臣には、正一位または従一位という位階が必要となり、地方の武将が身分不相応な官途を申請する場合は大名の格を考慮し、拒否することもあったと言われております関白は天皇を補佐し、百官を率いて大政を執行する公家身分の事実上最高位であり、官位を譲った前関白は太閤とよばれるようになります。
島左近との出会い
「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」これは徳川家康が敗走した一言坂の戦いでの家康を揶揄する言葉であり、三成になぞらえた言葉として言い残されています。
「君臣禄を分かつ」の逸話として伝えられている左近との出会いが有名です。当時の三成は秀吉より近江国水口4万石を賜る城主となりますが、筒井家の有力武将であった左近が浪人の身であると聞きつけます。左近は仕官の話が多く断り続けてきましたが、どうしても召し抱えたい三成は、自身の石高の半分である2万石を与える破格の待遇を与え、召し抱えることとなります。その話を聞いた秀吉は賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えたとも言われております
太閤検地での三成
豊臣政権下での三成は五奉行の1人として取り称えられ、行政や外交、戦における軍需品の輸送や後方における兵糧の手配など三成の手腕が発揮されております。
五奉行とは
- 浅野長政
- 石田三成
- 増田長盛
- 長塚正家
- 前田玄以
上記5名を指し、それぞれに役割を持ち合わせており、秀吉の元、五大老・五奉行が合議制を取り、世の政を取り仕切っておりました。三成は主に行政を執り行っており、中でも有名なものに「太閤検地」があります。
全国の土地の大きさを測る基準になるものさし「検地尺」を用いて、日本中の土地の大きさを正確に測る「太閤検地」がおこなわれました。戦国時代の日本ではは個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、村という団体として領主に年貢を納めることがほとんどです。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、さらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在したと言われております。
それまでは農村側が自己申告する形式が多かったのですが、太閤検地では多くの田畑が実際に計測されています。これにより実際の農民への年貢や大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、正確な情報が中央に集権されて把握されたことでもあり、その検知の意義は大きいと言われております。
秀吉の死後
秀吉が亡くなると政権内部には三成らを中心とする文治派と、武断派が形成され対立を深めていきます
この動きにいち早く、働きかけていったのが徳川家康でした。家康は秀吉が禁止していた大名間の私的婚姻を行い、「五大老・五奉行」制度の雲行きが怪しくなります。
この制度は死の床にあった秀吉が、幼い秀頼の政治運営を前出の五奉行と有力大名5名との合議制で執り行うことと遺命し、五大老には以下の武将が挙げられます。
- 徳川家康
- 毛利輝元
- 上杉景勝
- 前田利家
- 宇喜多秀家
前田利家が病死すると秀吉の子飼いである7将により、三成の屋敷が襲撃される事件が起こります。
子飼いの7将とは
- 加藤清正
- 福島正則
- 黒田長政
- 細川忠興
- 浅野幸長
- 池田輝政
- 加藤嘉明
上記7名の武将を指し、三成とは幼い頃からの仲です。
しかし、 この7将は武断派でありその背後には家康の存在があります。
襲撃事件の際、伏見城内の屋敷に逃げた三成と7将の仲介に乗り出したのが家康であり、その後三成は五奉行の座を退きます。前田利家の後を継いだ利長が大老の地位を退き、奉行職である浅野長政も甲斐国へ蟄居され、実質的に家康が豊臣政権を牛耳ることとなるのです。
関ヶ原の戦い
1600年上杉景勝が治める会津征伐の為家康は大坂を発ち、三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が、家康と入れ替わるように大坂へ入ります。
「内府ちがいの条々」と呼ばれる家康の13の罪状を書き綴った弾劾状が諸大名に送られ、関ヶ原の戦いの対立構造が成立します。関ヶ原の戦いの前哨戦とも言われる、伏見城の戦いでは宇喜多秀家、小早川秀秋が西軍へ参戦します。伏見城が落城すると、報を受けた家康は江戸へ戻り一ヶ月ほどで支度を整え直し、決戦の地関ヶ原へ向かうのでした。
同年9月15日、関ヶ原で東西主力の戦闘が行われ東軍勝利、80,000対85,000の大規模な戦闘にもかかわらず、およそ8時間ほどで終結したとも言われております。その陰には小早川秀秋の裏切りが有名ですが、三成方の大谷吉継が事前に察知しており脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の4将が秀秋に呼応するように裏切りを見せ、吉継隊を壊滅に追いやっております。
東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し逃げていた三成も捕縛されます。大坂・堺を罪人として引き回され後、「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」との辞世の句を遺し、京の六条河原で斬首されるのでした。
名言の使い方
何かが掛け違えて思わぬ結果になることもあります
頭だけで考えていてもいけません。泥臭く動いてこそ結果を受け止められるものですよ
自分の後輩も「先輩より結果出せますよ!」ってイキってくるんですよね、、、そうやって勉強して人として魅力的になってくれればと思います。けど、失敗した事はちゃんと謝ろうね。
まとめ
大谷吉継が三成にお前では勝てない!と言葉をかけても聞く耳持たずの三成でした。
三成の人望と家康の経験の差が大きくあらわれたのかもしれません 。子飼いの7将との仲を良好に保てていれば、きちんと膝を合わせて話をしていれば、歴史は今と異なった結果になったのかも知れませんね。この動きを私たちも学んで日々の業務と人間関係に取り入れていきましょう。
それではみなさま良い社畜ライフを!