現役プロ社畜が解説する、社畜に刺さる戦国武将名言シリーズ。今回の言葉も現代の働く私たちに通ずるものがあるのではないでしょうか?コチラの言葉を取り上げたいと思います。
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真田幸村の名言
真田幸村こと真田信繁の言葉として遺されています。
真田幸村の名言の意味
真田幸村の名言
「恩義を忘れ、 私欲を貪り、 人と呼べるか」
秀吉の親衛隊としてずっと傍についていた幸村は秀吉からの厚い信頼を受けていたとも考えられます。
プロ社畜の解釈
受けた恩義よりも、金や身分などの欲に溺れる者は果たして人と呼べるだろうか。
社畜にはグサっと刺さりますね、、、豊臣秀吉に忠誠を誓った信繁たる言葉として後生に語り継がれていくのでしょう。「豊臣には返すべき恩がある」その一心で大坂の陣に向かっていったのですね。
真田信繁の生涯
人質としての幸村
信濃国小県郡の国衆である真田昌幸の次男として生まれます。真田家は信繁の祖父の頃より武田家に帰属していましたが、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏が滅亡すると、織田信長に恭順して上野国の所領を安堵されます。
しかし、本能寺の変により織田家の情勢が混乱に陥ると、上杉氏・後北条氏・徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生。信繁はこの際、人質であった滝川一益の関東離脱に同行しています。その後、真田家は上杉氏へ従属する形となり、信繁は上杉景勝の元へまたもや人質として参ります。
豊臣秀吉の馬廻衆
織田家内で秀吉が台頭していくと、真田家は秀吉に臣従するようなります。この際、真田家は大名格として扱われるようになり、信繁も大阪城の秀吉の元へ人質として参ります。その折り、真田家の所領である名胡桃城に北条方の猪俣邦憲が攻め入り占領してしまいます。この行為が「惣無事令」と呼ばれる、秀吉によって施行された大名間の争いを禁じた法律に触れてしまい、小田原征伐が行われるのでした。
信繁は大谷吉継とともに北条家の忍城攻めに参加します。その後も文禄の役では父昌幸とともに名護屋常へ入り指揮をしています。この頃の信繁は秀吉からの信頼も厚く、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜されています。
関ヶ原の戦いと真田家
秀吉の死後、徳川家康の会津征伐の間に石田三成が挙兵し関ヶ原の合戦が起こります。会津討伐に向かう途中であった徳川家康は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知り、軍を西に返します。その際別働隊であった徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢は中山道を進んで上田城へ向います。
真田昌幸は当初徳川方に付いていましたが会津討伐に向かう途中、三成挙兵の知らせを受けると下野で信繁とともに離反し西軍に加担するのでした。秀忠はこの真田家の行動を謀反と見なし、征伐するために上田へ向かったのです。
昌幸には嫡男の「信之」と次男の「信繁」がいます。信之は本多忠勝の娘・家康の養女である小松姫を妻としており、徳川方に付いています。秀忠はこの信之からの助命懇願を受け入れるものの、昌幸と折り合いが付かず戦を交えます。
上田合戦で昌幸と信繁は秀忠軍に対し、城に立て籠もり迎え撃ったとされています。秀忠の刈田狼藉に対し、真田軍の挑発行動。手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて関ヶ原へと去って行きます。
肝心の関ヶ原に間に合わない、真田も攻略できていないとのことで秀忠のダメージは大きく、上田における徳川方の敗戦という形で真田の名は全国の大名へ知らされるのでした。
上田合戦で徳川を退けた真田親子でしたが大きな誤算が1つ、関ヶ原の合戦が半日足らずで結着がついてしまったのです。しかも、組みした西軍が負けてしまう最悪の結果となりました。
本来なら昌幸と信繁は死罪ですが、信之と本多忠勝等による取り成しによって九度山へ配流を命ぜられます。隠居する14年の歳月の間に昌幸は無くなり、信繁も出家し好白と名乗るのでした。
大坂の陣
徳川と豊臣氏の関係が悪化すると豊臣は各地の浪人を集め、この時信繁にも声がかかったと言われています。九度山を脱出して嫡男の大助とともに大坂城へ入ります。この信繁の行動は恩賞や家名回復ではなく、家康に一泡吹かせて真田の武名を天下に示すことだったとも言われています。
大坂冬の陣において自身が設計した真田丸において徳川方の猛攻を防ぎきるとともに、徳川方に大きく損害を与えます。しかし、陣の講和後大坂城の外堀を埋められるとともに、真田丸も取り崩さるのでした。
そして翌年、大坂夏の陣が起こります。
家康は夏の陣までの間に2度信繁に降るよう密使を遣わしますが、信繁は豊臣家への恩を尊重し断ります。夏の陣では、武田家由来の赤備えで編成した真田隊は天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げたとも言われています。
この勇敢な働きは「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と島津家の薩藩旧記雑録に残されるほどでした。
しかし、豊臣方の敗色が濃厚になると信繁の隊も崩れていき、四天王寺近くの安居神社の境内で身を休めていたところを討ち取られています。
「この首を手柄にされよ」と最後の言葉を遺し、日本一の兵は命を落としたのでした。
名言の使い方
恩義を忘れ、 私欲を貪り、 社畜と呼べるか!!
社畜にもプライドがあります。賃金の条件だけで引き抜こうとするのなら、、、、残業代と有給は出ますか?
まとめ
今回は真田信繁の名言と生涯を取り上げてみました。
過去にも大河ドラマ「真田丸」が好評で、現在でも人気の戦国武将ですね。ゲームでもイケメンキャラに仕上がっていますが、享年46から49歳とされています。
家康にとっても信繁は宿敵ともいえる武将であり、本陣突き崩しはかつて武田信玄に急襲された以来になるので、そのときの記憶もよみがえってきたのかも知れませんね。
それではみなさま、良い社畜ライフを!